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丹波亀山城跡【亀岡市観光】

丹波亀山城跡
写真提供:一般社団法人 亀岡市観光協会

「亀山城」は京都府亀岡市荒塚町周辺(旧丹波国桑田郡亀岡)にあった、平山城(ひらやまじろ)で、「亀岡城」「亀宝城」とも。
戦国武将・明智光秀が築城し、江戸時代には丹波国亀山藩の藩庁が置かれていました。

1577年(天正5年)頃、戦国大名・織田信長の命を受けた家臣の明智光秀が、丹波攻略の拠点とするために「丹波亀山城」を築城。
保津川と沼地を北に望む小高い丘(荒塚山)に築かれ、三重天守があったと伝えられていますが、正確な史料が残っていないため全容は分かっていません。

そして丹波平定を成し遂げた光秀は1580年(天正8年)に丹波国を信長より拝領し、本格的な城下町の整備と領国経営に着手しますが、そのわずか2年後の1582年(天正10年)、信長より中国出陣を命じられて亀山城を出陣した光秀は、軍勢を転じて老の坂を下り、桂川から京の本能寺に向かい主君を討つこととなります。

1610年、岡部長盛の時代に城郭・城下町がほぼ完備されました。



この歴史上も有名な「本能寺の変」の際に、光秀はここ丹波亀山城から軍勢を引き連れて本能寺へ向かったことで知られています。

その後、光秀が本能寺の変の直後に起こった天下分け目の天王山として有名な「山崎の戦い」で羽柴秀吉に敗れて居城の坂本城(滋賀県大津市)に向かう途中に討ち死にすると、天下を統一した秀吉の重要拠点として一門の羽柴秀勝(信長の子)・豊臣秀勝(秀吉の甥・江の夫)・豊臣秀俊(後の小早川秀秋)や豊臣の五奉行の一人、前田玄以などが治めました。
とりわけ小早川秀秋の時代には城下町整備を中心とした築城整備が行われたといいます。

江戸時代に入ると徳川幕府は山陰の要としてこの城を重視するようになり、1609年(慶長14年)に譜代大名・岡部長盛を3万2000石で亀山藩主として入城させた後、翌1610年(慶長15年)には大坂城の包囲網として天下普請による大修築を行います。

城づくりの名手として知られた藤堂高虎が縄張りを行い、幕府が西国大名に命じて整備させたもので、近世城郭としての5層5階の天守のほか、3重の堀を持つ城下町も整備され、その美しさから「亀宝城」とも呼ばれたといいます。

岡部氏の後は丹波亀山城主は目まぐるしく交替することとなりますが、江戸中期の1748年(寛延元年)に形原松平信岑が丹波篠山より5万石で入封すると、以後は明治維新まで8代に渡って形原松平氏の居城となりました。
この点、5万石前後の小藩の城ではあるものの、規模は20数万石に相当していたといいます。

しかし明治維新の後、明治初期の「廃城令」を受けて1878年(明治11年)に廃城となると、城内の建物は天守はもとよりすべてが市町村に払い下げされ、残された城跡は放置され荒廃します。

1919年(大正8年)、亀岡出身の新興宗教法人「大本(おおもと)」の教祖・出口王仁三郎が荒廃した城跡を購入すると、大本信徒を動員して残った石を土中から掘り起こして元の亀山城石垣を復元するとともに、神殿が築かれ、大本の聖地「天恩郷」として整備を行います。
この後1935年(昭和10年)の天皇への反逆という名目で日本政府により行われた「大本弾圧事件」でいったんは爆破・破却されますが、戦後に再建されて現在に至っています。

城跡には積み直しの行われた石垣の一部などが城の遺構として残っており、宗教法人大本の敷地内にあるものの、総合受付で見学を申し込めば聖域となって立ち入りのできない天守台を除き、本丸付近の石垣や内堀跡(現在は万祥池)を見学することが可能となっています。

また大本の北側には外堀跡に整備された「南郷公園」があり、「明智光秀公築城亀山城趾」の石碑が公園入口の左に建てられているほか、2019年5月には明智光秀の銅像が新たに建立され除幕式が執り行われました。

更に建物の遺構としては「新御殿門(長屋門)」が亀岡市内の千代川小学校の校門として移築されて、唯一現存しているほか、敵からの侵入を防ぐために、城下町を取り囲むように造成された「土塁」と「堀」で構成される防衛ライン「丹波亀山城惣構(そうがまえ)跡」もいくつかが残されています。

なお一体の地名は当初は「亀山」でしたが、明治維新直後の1869年(明治2年)に現在の「亀岡」に改称されています。



伊勢国(三重県)にある同じ地名の「亀山」と紛らわしいため、明治になってからこの土地の地名を「亀岡」と改めることになり、城の名前も「亀岡城」に改められたのですが、これは1868年(慶応4年)の「戊辰戦争」で伊勢亀山藩が新政府側に味方した一方で、丹波亀山藩が幕府側に味方したため、敗れた丹波亀山の方が改名させられることになったのだといわれています。

一方丹波亀山城を中心に栄えた城下町は現在も残されており、紺屋町、本町のあたりにはいにしえの風情を今に伝える切妻や京格子の商家が残されており、一帯では毎年10月下旬に11基の山鉾が町内を練り歩く「亀岡祭」が盛大に開催されます。

また光秀は地元では名君として慕われていて現在も人気が高く、毎年5月3日に開催される「亀岡光秀まつり」では、大本はこの際の行列のルート、休憩場所となっているほか、光秀を追悼する「光秀公慰霊祭」の式典も行われています。

他にも「七草がゆ」などの行事や、梅や杜若、紅葉などの花の名所としても知られています。



丹波亀山城跡のアクセスマップ

名称 丹波亀山城跡
建立・設立 1577年(天正5年)頃、明智光秀が丹波攻略の拠点とするため築城
1580年(天正8年)、織田信長より丹波国を拝領した光秀が本格的な城下町整備と領国経営に着手するも、1582年本能寺の変が勃発、その後は天下を統一した秀吉の重要拠点として一門の羽柴秀勝(信長の子)、豊臣秀勝(秀吉の甥・江の夫)、豊臣秀俊(小早川秀秋)や豊臣政権五奉行の前田玄以などが入る
1610年(慶長15年)、徳川幕府譜代大名の岡部長盛の時代に城郭・城下町がほぼ完備(城作りの名手・藤堂高虎による)
1869年(明治2年)、伊勢亀山と紛わらしいこともあり亀岡藩へ改称
1871年(明治4年)、廃藩置県により亀岡県が置県
1877年(明治10年)、政府が廃城処分を決定
1889年(明治22年)、市町村に払い下げされその後所有者が転々とする
1919年(大正8年)、新宗教「大本」の指導者出口王仁三郎が荒廃していた城を購入し綾部と並ぶ拠点にすべく整備を開始
1935年(昭和10年)、第二次大本事件で大日本帝国政府による徹底的な弾圧が加えられ爆破・破却される、戦後所有権は再び大本に渡り大本の聖地となる
所在地 京都府亀岡市荒塚町内丸1(天恩郷)
時間 城郭見学は大本本部の総合受付まで(9:00~16:00) ※受付は15:30まで
利用料金 見学無料
丹波亀山城跡アクセス

◆JR嵯峨野線「亀岡駅」下車、徒歩約10分
◆京都縦貫自動車道「亀岡」ICから車で約5分(国道372号経由で約3km)

駐車場 大本教参拝者専用駐車場 100台(無料)
問い合わせ先 0771-22-5561(大本本部 亀岡宣教センター)
0771-22-0691(JR亀岡駅観光案内所)




◆JR嵯峨野線「亀岡駅」下車、徒歩約10分
◆京都縦貫自動車道「亀岡」ICから車で約5分(国道372号経由で約3km)